歴史で学ぶ量子力学【2】「自分が物理学など何も知らない喜劇役者だったらよかったのに」

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水素原子内の電子の波動関数。軌道ごとに電子が取れるエネルギー状態のパターンでもある。/Credit:en.Wikipedia
歴史で学ぶ量子力学【1】
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歴史で学ぶ量子力学【3】
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20世紀のはじめ、第一次大戦が終りを迎えた頃、物理学は光の「波動説」と「粒子説」の2つの間で揺れていました。

光が矛盾するどちらの性質でも成り立ってしまうことに皆が困惑していたのです。

1922年にアーサー・コンプトンによるコンプトン効果の発見によって、アインシュタインの光量子仮説は決定的なものになっていました。

コンプトン効果とは、電子にX線をぶつけたとき、弾かれて散乱したX線の波長が伸びるという現象です。波長が伸びるということは、X線がエネルギーを失っていることを意味しています。

衝突でエネルギーを失うという現象を古典物理学で説明するなら、ビリヤードのようにぶつかった玉が運動量の一部を相手に奪われた、ということになります。

波は運動量を持たないため、古典物理学の解釈ではX線を波と捉えたまま、散乱で波長を伸ばす理由が説明できませんでした。当時の物理学がコンプトン効果を理解するためには、X線が粒子であると解釈しなければならなかったのです。

こうして、この時代の物理学者たちは、月曜と水曜と金曜は光の波動論を教え、火曜と木曜と土曜は光の粒子論を教えなければならない、と冗談交じりに愚痴るような状況になりました

では、ここから物理学は一体どこへ向かっていったのでしょうか?

物質の全ては波

粒子と波動、どちらも成り立つこの問題に最初の光を当てたのが、物理学者としては異例の系譜を持つフランス公爵家出身の貴公子ルイ・ド・ブロイでした。

「アインシュタインの発見は、あらゆる物質粒子、特に電子に拡張されなければならない」ルイ・ド・ブロイの肖像。/Credit:Wikipedia Commons

彼はX線を研究する兄モーリスの影響で物理学にはまっていき、兄が公爵家を継ぐために科学の道を諦めたため、その意志を引き継いで物理学者になりました。

ド・ブロイの発想は非常に画期的でした。彼は光が粒子なのか、波なのかという論争を物理学者たちが繰り広げる中で、次のようなことを考えたのです。

波であるはずの光が粒子のように振る舞うのだとしたら、原子などの粒子は波のように振る舞うのではないだろうか?

彼はこの考えに基づき、当時太陽の周りを回る惑星のように原子核の周りを軌道を描いて回る粒子だ、と考えられていた原子内の電子を、定在波であると仮定した論文を書いたのです。

彼のこの仮説には、ボーアの原子モデルにとっても重要な意味を持ちました。

新しい原子モデルを考え出した当初、ボーアは定常的な軌道を回る電子はエネルギー放射を行わないため、原子核に落ちることが無いと仮定しました。しかし、彼は「なぜ電子がエネルギー放射をしないのか?」という疑問に答えることはできなかったのです

もしド・ブロイの主張する通り、電子が粒子でなく波なのだとしたら、それは加速することがありません。加速しなければ電子はエネルギー放射をすることもなく、したがって原子核に落下することもないのです。

しかも、ド・ブロイの原子核を回る電子の定在波は、ぐるりと円を描いて繋がっているため波形の崩れる位置でつなげることができません。

軌道の長さは、必ず電子の波長の整数倍でなければならず、それはボーアの主張する電子の軌道とピタリと一致したのです。つまりボーアの主張する定常的な軌道がなぜ存在するかも、ド・ブロイは同時に説明できたのです。

しかし、あまりに突拍子の無いこのアイデアに、多くの物理学者は困惑してしました。なにせ、この論文はド・ブロイが学位取得のために書いた博士論文だったのです。

けれど、この論文を手放しで評価した人物が現れました。それが、光電効果によるノーベル賞受賞と、一般相対性理論の発表をほぼ同時期に果たして、一躍時の人となっていたアインシュタインでした。

当時の物理学会にとってアインシュタインの太鼓判は、ド・ブロイの考えを受け入れるのに十分な理由でした。

しかし、「粒子だと思っていた電子が波である」などという主張はどうやって証明すればいいのでしょう?

ド・ブロイはそれについて、電子が波の性質を持つならば、電子も回析を起こすはずだという予想を述べました。このド・ブロイの予想は、後に複数の物理学者たちの実験によって証明されます。

その中の一人が、ジョージ・トムソンでした。この功績によりジョージ・トムソンはノーベル物理学賞を受賞します。ちなみに、彼の父、J・J・トムソンは電子が粒子であることを発見し、ノーベル物理学賞を受賞した科学者です。

トムソン親子は驚いたことに、それぞれ「電子は粒子である」「電子は波である」と証明して、親子二代でノーベル賞を受賞したのです。

「あーもうめちゃくちゃだよ!」と思った物理学者もいたことでしょう。

ともあれ、こうして、光も電子も「波でありながら粒子の性質を示す」という二重性の考え方が物理学の世界に受け入れられることになったのです。

パウリの排他原理

古典物理学では光も電子も手に負えないということが徐々に明らかになり、物理の世界は新しい理論を求めるようになっていました。

こうした中登場したのが、量子力学の歴史を語る上で欠かすことのできない重要人物の一人、ヴォルフガング・パウリです。

彼はかなり早熟の天才でした。世の中には「授業中に机の下に隠した漫画を読んでいた」なんて不届きな人もいるかも知れませんが、パウリの場合、退屈な授業中に隠れて読んでいたのは、アインシュタインの相対性理論の論文だったといいます。

「ともかく物理学は難しすぎて、自分が物理学など何も知らない喜劇役者だったらよかったのにと思う」ヴォルフガング・パウリの肖像。/Credit:Wikipedia Commons

彼の最初の師となったのは、前回話した、ボーアの原子モデルに電子軌道が楕円という修正を加えて完成形に近づけたゾンマーフェルトでした。

ゾンマーフェルトは数理科学百科事典という物理をまとめた本を作っていて、相対性理論の解説をアインシュタインに依頼しましたが断られたため、まだ19歳だったパウリにその編集を任せました。

パウリの書いた相対性理論の解説は完璧な出来栄えで、ゾンマーフェルトが「自分が直すところは何もない」と驚くほどでした。それは後日アインシュタイン本人も読むことになり、その深い洞察に称賛を送ったといいます。

そんなパウリでしたが、根っからの理論物理学者で、実験は大の苦手。実験器具もよく壊していたといいます。そのうち近づくだけで器具が壊れると噂され、科学と無縁のこの現象は冗談めかしてパウリ効果などと呼ばれました。

パウリはその後いくつかの研究室を渡り歩き、ボーアの講演に感銘を受けて、コペンハーゲンの研究所へ行くことになります。パウリの研究所滞在は1年という期限付きのものでしたが、ボーアとの付き合いはこの後生涯に渡って続きます。

一方この頃、ボーアは電子殻モデルというものを発表します

授業中、机の下に隠して相対性理論を読んだりしなかった人なら、化学の授業で原子にはK殻、L殻、M殻などの殻があって、それぞれに入れる電子の数が2個、8個、18個と決まっているという話を聞いた覚えがあると思います。

電子殻モデル(左)と各元素の電子の配置(右)。/Credit:ViCOLLA Magazine

このモデルでは、最外殻電子の数によってなぜ周期的に元素に似た性質が現れるのかという、元素周期表の並びの意味を見事に説明していました

電子殻はそれぞれ決められた上限の電子数があり、いっぱいになると殻が閉じて化学的に極めて安定した状態になります。

けれどボーアは相変わらず、経験的なデータからインスピレーションに頼ってこれを導いていて、なぜこのように電子殻の電子数が決定されるのか説明することはできませんでした

恩師のラザフォードも優れたアイデアであることは認めつつも、「なぜ君がこの結論に至ったのかがまるで理解できない」と困惑したといいます。

しかし、ボーアはこのモデルをもとに当時未発見だった、元素番号72番の性質について予想を述べ、それは後に発見されたハフニウムと一致します。このためボーアの電子殻モデルは無視できない理論となりました。

このモデルに論理的な基礎を与えるヒントは、ラザフォードの研究室にいた大学院生エドマンド・ストーナーが発見します。

ボーア・ゾンマーフェルトの原子モデルでは、電子のエネルギー準位を決定するために、軌道の大きさ(n)、軌道の形(k)、軌道の向き(m)という3つのパラメータ(量子数)を使っていました。

ストーナーはこの3つの量子数を使って計算すると、それぞれの電子殻で電子が取ることのできるエネルギー状態が、1個、4個、9個に決定できるということを発見するのです。そして電子殻に入る電子の数はこのエネルギー状態の2倍の数になっていることを示したのです。

パウリはこの研究をヒントにして、現代まで彼の名を轟かせる「パウリの排他原理」を思いつきます。

電子は軌道上で、あるエネルギー状態を作りますが互いに同じエネルギー状態に入ることができません。それが電子殻に入れる電子数に上限を生み出しているのです。

しかし電子殻の上限は、なぜ電子の取りうるエネルギー状態数の2倍になってしまうのでしょう?

パウリはこの原因が、実は電子のエネルギー状態を決定するパラメータを1つ見落としているためではないかと考えます。

彼はこのとき、磁場の影響で線スペクトルが分裂する「異常ゼーマン効果」の原因解明に苦しんでいましたが、この問題を解決する鍵がその磁場に影響される新しいパラメータ(電子の自由度)だと気づくのです

そして、パウリはそのパラメータに二価性という名を付けて導入します。

これは電子のエネルギー状態をさらに2つに分けることができました。つまり、ストーナーの計算したエネルギー状態の2倍が電子数の上限という問題が解決され、電子殻に関する基礎理論が完成したのです。

電子スピンの登場

しかし、パウリが導入した二価性とは何を意味しているのでしょうか?

この問題を解決させたのが、オランダ人のウーレンベックとハウトスミットという二人のポスドク研究者でした。

ウーレンベックが考えたのは電子のスピン(回転)でした。磁場に影響する以上、それは電子の自転だろうと考えたのです。そして、それは右回りか左回りの2種類だとしました。

電子スピンのイメージ。/Credit:Wikipedia Commons

ただ、電子は大きさを持たない粒子として記述されます。これが回転した場合、電子の角速度は光速を上回ってしまい相対性理論に反することになります。

パウリもボーアもこのことが引っかかり、電子スピンには反対でしたが、当のアインシュタインが解決可能だという考えを示したことで溜飲を下げます。

このことは後に場の量子論という別の問題に繋がっていきますが、それはまた別のお話です。

なんにせよ、このときウーレンベックの考えた電子が地球のように自転しているというのは誤ったイメージでした。実際電子スピンは数式で表現されるイメージできない極めて量子的な状態を表しています。

もちろん、それではまったく理解できないので、今でも電子スピンは地球と同じような電子の自転というイメージで説明されています。しかし電子スピンとは量子力学の話を聞いたときに、多くの人が「?」と躓く問題の1つでしょう。

こうした古典物理学では表現することのできない概念の登場は、古典物理学と量子論という新しい物理学を分けるきっかけになるのです。

現代でも多くの人たちが理解することに苦労する「電子スピン」の発見は、当時もちょっとしたいざこざを起こしました。

実はウーレンベックとハウトスミットの論文発表より、1年ほど前にラルフ・クローニヒという研究者がすでに二人の論文と同じレベルまで理論を完成させていたのです。

ただ、古典物理学で考えた場合あまりに問題の多い電子スピンは、クローニヒ自身も確信が持てなかったため、パウリにどう思うかと相談をしました。

パウリは二価性について、古典物理学の概念では表現できない量子状態だと直感的には理解していたので、クローニヒの電子の自転というアイデアを馬鹿にしてかなり冷淡な態度で否定しました

そのためクローニヒは、「あのパウリが違うというなら違うんだろう」と発表を諦めてしまうのです。しかし、二人のオランダ人のスピン理論があっさり世間に受け入れられたのを目の当たりにして、クローニヒはかなりパウリを恨みます。

後に二人は和解しましたが、このことは世間の知る所となり、ノーベル賞委員会もこの騒動でスピンの発見について、ウーレンベックとハウトスミットの二人に賞を送ることを躊躇ってしまいました。

そのため、電子スピンは量子論の歴史に残る大発見だったというのに、この件でノーベル賞を手にした人は誰もいないのです。

しかし、パウリは排他原理の発見でノーベル賞を受賞したため、彼はこのことを後々までかなり気に病んでいました。パウリは晩年になっても「若い頃の自分は本当に馬鹿だった」と後悔していたといいます。

もう一人の天才 ハイゼンベルク

パウリと同世代で、重要な物理学者がもう一人存在します。それがヴェルナー・ハイゼンベルクです。

ハイゼンベルクはもともとは数学者になろうとしていましたが、数学の教授とうまく行かず、父の紹介で出会った物理学者ゾンマーフェルトのもとで勉強することになります。

このときゾンマーフェルトの研究室には、パウリも在籍していました。ここでの出会いをきっかけに二人は生涯を通じた物理学研究の盟友となります。

量子論の魅力をハイゼンベルクに教えたのもパウリでした

「物質の基本的構成要素は、数学に還元できるのではないか?」ハイゼンベルクの肖像。/Credit:Wikipedia Commons

その後、ハイゼンベルクはパウリと同様ボーアの講義に感銘を受け、量子論の道を歩む決心をします。

そして、博士号取得後は、ゾンマーフェルトの紹介で、マックス・ボルンの助手として彼の研究室に入りました。

マックス・ボルンは、数学者から論理物理学者へ転向した人物で、この時代、ボーア、ゾンマーフェルトと並んで量子力学の重要人物でした。

ボルンは、そのとき、次々に見つかる新事実に物理学はもう1から全部作り直すしか無いだろうと考えていました。そして、その新理論を量子力学と呼んだのです。

ボルンの研究室に入ったハイゼンベルクは、原子核の周りを回る電子について考え始めます。

この当時、ハイゼンベルクはひどい花粉症を患っていて、ある時期は顔が腫れ上がって目も開けられないという状態になりました。

研究にも集中できないので、彼は仕方なく休暇をとって、花粉の届かない北海の小島ヘルゴラントへ旅行にいきます。そして、やっと訪れた落ち着いた環境の中でゆっくりと思考を巡らせた彼は、量子力学を確立させる大発見をするのです。

もともと数学を志していたハイゼンベルクは、観測できないものに視覚的イメージを持たせることはナンセンスだと考えていました。原子核の周りを軌道を描いて回る電子というイメージも、ハイゼンベルクにとってはひどく馬鹿馬鹿しいものだったのです。

彼は、物質の構成は観測できる値とその関係性だけで数学的に表現できるだろう、というちょっと小難しい考え方をしていました。

そこでハイゼンベルクは、電子がエネルギー準位間を瞬間的にジャンプするとき生じる線スペクトルの振動数など、観測で得られる値を全部書き出し、ボーアの対応原理によって量子的な値を古典的な運動量と位置に変換しました。

そして、そこから電子の振る舞いを計算しようとしたのですが、この複雑な式は運動量pと位置qを入れ替えて掛け算できないという、特殊な性質を持ってしまいました。

これはつまり、A×BとB×Aという計算をした場合、答えが異なってしまうということです。これを非可換性といいますが、掛け算の順序で答えが異なる計算というのをハイゼンベルクはそれまで経験したことがありませんでした。

ハイゼンベルクは悩みましたが、この成果をボルンに見せます。するとボルンは、「君がやっているのが行列計算だ」と言ったのです。

行列の一例 /Credit:The Mysearch Website

行列計算は、計算の順序を変えると答えも変わってしまいます。この当時、行列計算は数学では確立されていたものの、論理物理学者にはほとんど知られていませんでした。

数学に熟達したボルンは、この式を洗練させていき、まだ若手のヨルダンという研究者も引き込んで、ハイゼンベルクとともに三者論文と呼ばれることになる論文をかきあげました。

その論文は当時、ボーアに見せても「行列だらけで何がなんだかワケがわかりません」と言われたくらいです。

しかし、パウリはここで語られる理論を使って、水素原子の線スペクトルを論理的に再現することに成功します。

こうしてハイゼンベルクの傑作と言える、新しい物理学『行列力学』が誕生するのです。

けれど、何を計算しているのかイメージすることもできず、しかもなれない複雑で難解な行列計算を強いるこの行列力学は、同業の物理学者たちからはすこぶる評判が悪いものになりました。

物理学者たちは、行列力学が正しい結果を導けるため、仕方なくイヤイヤ受け入れるという状況になってしまったのです。

しかしこの行列力学の、運動量と位置という2つの物理量の非可換性(入れ替えて計算できない)は、2つの確定値を同時に得られないという不確定性原理の発見に結びついていくのです。

 

歴史で学ぶ量子力学【1】「私の波動方程式がこんな風に使われるなんて…」

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