備中松山城攻めの講和の条件として行われた清水宗治の切腹、一説にはその時の宗治の態度や切腹の際の作法が見事だったためこれ以降切腹が武士の名誉ある死と言われるようになったとも言われている
備中松山城攻めの講和の条件として行われた清水宗治の切腹、一説にはその時の宗治の態度や切腹の際の作法が見事だったためこれ以降切腹が武士の名誉ある死と言われるようになったとも言われている / credit:高松山妙玄寺
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ある意味人生に一度の晴れ舞台!江戸時代の武士の切腹作法

2023.11.26 Sunday

江戸時代に不祥事を起こしたり悪事を働いた武士には、しばしば切腹が言い渡されました。

しかし切腹は武士にしか許されないある種の名誉を重んじた死に方であり、それ故一種の儀礼として行われていたのです。

果たして切腹はどのような手順で行われていたのでしょうか?

本記事では切腹の手順について紹介しつつ、江戸時代を通してどう変わっていったのかについて紹介していきます。

なおこの研究は『帝京大学文學部紀要』日本文化学に詳細が書かれています。

コルネーエヴァ スヴェトラーナ (Svetlana Korneeva) – 切腹刑の作法ー『自刃録』の記述を中心にー – 論文 – researchmap https://researchmap.jp/Sveta/published_papers/33403104

どんな人物が切腹の対象となったのか?

備中松山城攻めの講和の条件として行われた清水宗治の切腹、一説にはその時の宗治の態度や切腹の際の作法が見事だったためこれ以降切腹が武士の名誉ある死と言われるようになったとも言われている
備中松山城攻めの講和の条件として行われた清水宗治の切腹、一説にはその時の宗治の態度や切腹の際の作法が見事だったためこれ以降切腹が武士の名誉ある死と言われるようになったとも言われている / credit:高松山妙玄寺

武士が腹を切って自決することは平安時代にもありましたが、名誉ある自殺方法として見られ始めたのは戦国時代からです。

やがて江戸時代になると、不祥事を起こした武士に対する死罪の方法として切腹が行われるようになりました。

なお武士が死罪になる場合は必ずしも切腹になるわけではなく、あまりにも不名誉な罪状で死罪になる場合は庶民と同じように斬首刑になります。

例えば島原の乱の元凶となった島原藩主の松倉勝家(まつくらかついえ)は、切腹を許されず一介の罪人として斬首刑に処されました。

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