鳥居清長画『女湯』、銭湯を詳細に描いた浮世絵として知られている
鳥居清長画『女湯』、銭湯を詳細に描いた浮世絵として知られている / credit:Wikipedia
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ソープランド同然だった!混浴が当たり前の「江戸時代の銭湯」 (3/3)

2024.07.14 Sunday

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ソープランド同然の銭湯もあった江戸時代

湯女、湯女が性的サービスを提供する銭湯は日中は普通に営業しているものの午後4時過ぎから銭湯としての営業を終えて風俗店へとなった
湯女、湯女が性的サービスを提供する銭湯は日中は普通に営業しているものの午後4時過ぎから銭湯としての営業を終えて風俗店へとなった / credit:Wikipedia

また当時の銭湯は混浴が基本であり、男女ともに同じ浴室に入っていました。

先述したように浴室の中は暗かったこともあり、風紀の乱れるトラブルが起こることもありました。

それに対して幕府は天保の改革(1841~43)などで混浴の禁止を行い、それにより男女で入浴日時が分かれている銭湯や男湯だけ・女湯だけといった銭湯が生まれるなど一定の成果はあったものの、完全に混浴を無くすことは出来なかったのです。

さらに江戸時代前期の銭湯には、湯女(ゆな)という存在があり、利用者の垢すりや髪すきなどを担当していました。

しかし湯女は競争の激化によって、次第に垢すりだけでなく飲食や音曲の提供を行うなどサービスの幅を広げていき、遂には性的サービスを提供するものさえ現れたのです。

これにより実態が風俗店と変わらない銭湯も続出し、中には吉原遊郭と張り合うほどの銭湯も出てきました。

そのあまりののさばりように幕府も手を焼き、1651年に湯女は禁止されたのです。

よくジブリの名作映画「千と千尋の神隠し」の舞台について、ただの銭湯なのにやらしい施設なんだ、という話しが出るのは、こうした江戸時代における銭湯の変遷があったためでしょう。

なお利用者の垢すりや髪すき自体の需要はあったことから、それ以降は三助と呼ばれる男性従業員が銭湯内にて垢すりや髪すきを行うようになりました。

江戸時代の銭湯は庶民の憩いの場であり、人々が上下の区別もなく裸の付き合いをしていた稀有な場であったといえます。

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