- 12000年前に作られた遺跡は、人類最古の神殿である可能性がある
- 神殿が建てはじめられたとき、人類はまだ農耕生活にうつっていなかった
- 狩猟生活を送っていた人類は幾何学的な知識を持っていた可能性がある
トルコ南東部に存在するギョベクリ・テペ遺跡は12000年前に建造がはじまったとされています。
遺跡が建てられ始めた時代には、人類は基本的に狩猟生活を営んでおり、定住及び農耕は始まっていません。
移動しながらの狩猟と採集で生活を送っていた人類が、なぜ巨大な遺跡を必要としたのでしょうか? 多くの考古学者は長年、この問題に頭を悩ませています。
ですが、最新の遺跡研究は、さらに考古学者の悩みを加速させる結果になりました。
建築学的な方法によって、遺跡の単位である円形のくぼみの位置を分析した結果、最初期につくられた3つのくぼみの中央地点が、底辺となる線の垂線を元に、綺麗な正三角形を描いていることが判明したのです。
これが事実ならば、遺跡の建造者には、かなり正確な三角形の知識があったことを意味します。
ギョベクリ・テペ遺跡を作った存在は何者なのでしょうか?
ギョベクリ・テペ遺跡を巡る謎
既存の常識では、ピラミッドのように、巨大な遺跡が建設されるには人間の定住化と農耕の開始が必要だとされています。
そして組織的な建築作業を行うには指導者としての王のような集権的な存在と、労働者への安定的な食糧供給が必須であり、この2つの要素(指導者と労働者への食料供給)を満たせるのは農耕文明だけだと考えられていました。
事実、ギョベクリ・テペ遺跡に存在する巨大な石柱(数十トン)を建造するには最低でも、500人以上の人間の集中的な労力投入が必要と試算されていました。
ですが、この時代のトルコ南西部の人類は基本的に狩猟生活を営んでおり、農耕は極めて限定的でした。
そのため従来の説では、ギョベクリ・テペ遺跡の初期建造物は複数の狩猟生活を営んでいた人類が、世代や部族を超えて作り続けることで完成したと結論付られてきました。
また組織的な建設には、神官のような宗教的指導者が選出されていたかもしれません。
しかしどの説も決定打に欠けていました。
大規模な労働者を駆り出すほどの指導力を持った神官の存在は農耕文明のものです。ギョベクリ・テペ遺跡の周辺は、チグリス・ユーフラテス川に優先する程の農耕の適地ではありませんでした。