宇田川国芳の「忠臣蔵十一段夜討之図」、家を取り潰された場合家臣たちは浪人になるので時として赤穂事件のようなことも起こりうる
宇田川国芳の「忠臣蔵十一段夜討之図」、家を取り潰された場合家臣たちは浪人になるので時として赤穂事件のようなことも起こりうる / credit:Wikipedia
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浪人の実態!江戸時代のフリーランス生活を解説 (2/2)

2024.06.30 Sunday

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意外とあった武士の転職

宇田川国芳の「忠臣蔵十一段夜討之図」、家を取り潰された場合家臣たちは浪人になるので時として赤穂事件のようなことも起こりうる
宇田川国芳の「忠臣蔵十一段夜討之図」、家を取り潰された場合家臣たちは浪人になるので時として赤穂事件のようなことも起こりうる / credit:Wikipedia

このように江戸時代の浪人は多種多様な種類がありますが、もちろん私たちが普段イメージしている「主君に仕えていない武士」という浪人も多くいました。

武士が浪人になってしまった経緯は様々なものがありますが、主なものは「仕えていた大名が取り潰されてしまった」「藩内でトラブルがあった」の2つです。

特に江戸幕府の初期は幕府が幕令違反や後継者断絶を理由に大名を積極的に取り潰す政策を取っていたこともあり、浪人は断続的に増えていきました。

「たとえ大名を潰したとしても、その土地を次に治める人物が人手不足を理由にまとまった数を雇ってくれるのではないか」と考える人もいるかもしれませんが、当時は戦国の世が明けてすぐであったこともあり武士の数に対して仕事の数が圧倒的に足りていなかったため、一部の優秀な武士や例外を除いて、再就職をすることは容易ではありませんでした。

それでも一度浪人になってしまったら特別なスキルがない限り這い上がるのが不可能だったわけではなく、親族や知人を通して他の藩に仕えることはありました。

弘前藩の記述にも、家臣の親族が浪人である場合、その面倒を見ることが社会的に認められていたことが記されています。

さらに浪人との間で養子縁組や婚姻が行われることも、しばしばありました。これにより浪人が家を継ぐことを通して、他の藩に仕えるということもあったのです。

このように浪人という存在は、単に主君を持たない武士というだけでなく、社会的に多様な役割を果たしていました。

また浪人が他家に仕えるというのも容易ではないものの不可能ではなく、浪人となったからといって武士の社会から完全に追放されたわけではないことが窺えます。

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